高木豊はベイスターズにお怒りのようです
静止画動画 久々にボロクソに言う豊さんmylist/54968156
高校時代は2年生時からレギュラーを獲得した他、のちに圧縮バットの製造で有名になる石井順一という人物からメジャーの技術を教えてもらうという幸運にもめぐり合う。高校卒業後に一般入試で早稲田大学に進学し、1年の秋から出場機会を得ると2年の春に首位打者を獲得し、ここから6度のベストナインに輝く等の大活躍を見せ、現役時代左打者だった監督の石井藤吉郎は「早稲田大学史上最高の左打者」と絶賛。通算で打率.360、18本塁打の成績を残している。70年のドラフトにおいて中日ドラゴンズから1位で指名され入団。プロでは1年目から外野のレギュラーを掴み、126試合に出場して打率こそ.251ながら11本塁打45打点という成績を残し、見事新人王を獲得する。その後は72年、73年、74年、75年でそれぞれ打率.290、.295、.290、294と中々打率3割の壁を越えられないでいたが、75年にそれまで14だった背番号を変えるように勧められ、中国の四柱推命から「41は鶏群の一鶴」(鶏の中に1匹鶴がおり、凡人の中に一人だけ優れた人物がいるという意味)と言われたことで背番号を41に変更する。すると翌76年は夏場に22試合連続安打を記録するなどバットが好調で、10月1日時点で打率は.336にまで上昇していた。この時首位打者にいたのは巨人の張本勲で、その打率は.352。ここから日本プロ野球史上最も激しい首位打者争いが始まる。まず張本は10月開始時点で打率.352だったが、ヤクルト戦・大洋戦で打率を一時は.358にまで引き上げ、その後阪神戦・広島戦でやや失速したものの最終的に打率.354に終わる。対する谷沢は同じ10月開始時点で.336であり、得意とする広島戦で大暴れしたことで巨人の全日程が終了した時点でその打率を.352にまで引き上げた。しかし後3試合しかない状況で張本を抜くのは困難とも思われた。(実際張本も首位打者は自分と思い、王貞治と銀座で飲んでいたとか)しかし谷沢は2試合で3打数1安打で打率.352を維持すると、最後の試合となった10月19日の広島戦で第1・第2打席で金城基秦からヒットを放ち、第3打席では高橋里志の前に三振に倒れるも、最後の第4打席で甘く入ってきたフォークボールをセンター前に弾き返し、見事4打数3安打で張本を最後の最後で逆転し初の打率3割と首位打者を獲得した。ちなみにこの時の谷沢の打率が.35484、張本の打率が35478とわずか6糸の差しかなかった。しかし首位打者を獲得した翌年の77年からアキレス腱痛に悩まされるようになり、78年の6月上旬には走ることもできなくなって登録を抹消されてしまう。谷沢は治療のために20箇所を超える病院を訪れるが、どの病院でも谷沢のアキレス腱痛を治すことが出来ず、79年はキャンプすらもまともにこなすことが出来なくなったため、気持ちは90%辞める方向に傾いていた。
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