ハマスタレジェンドマッチ 1998×YOKOHAMA 2017.11.23 スタメン~2回表
ハマスタレジェンドマッチ 1998×YOKOHAMA 2017.11.23 スタメン~2回表 [スポーツ] スタメン発表→始球式→1回表から2回表終了迄いずれ消します次 → sm32312865(飛びます)mylist/…
高校時代は三塁手としてプレーしていたが、三年生時に投手に転向、甲子園には縁が無かったもののその身体能力を評価され、九州の社会人野球のノンプロであるブリヂストンタイヤに入社、ここで当時西鉄ライオンズのエースだった稲尾和久に憧れてフォームを改造。その結果「稲尾よりも豪快」と言われる程のフォームを完成させ、社会人ではほぼ敵なしという投球を披露しプロから注目を集め、巨人と中日が獲得を争ったが、当時の中日の監督でありかつてブリヂストンと同じく九州のノンプロである日鉄二瀬の監督を務めていた濃人渉の説得が決め手となり、権藤は61年に中日に入団する。入団後、濃人監督の期待の表れか、かつて中日のエースであった杉下茂が着けていた背番号20を与えられる。その期待に権藤は答えるため、オープン戦では28.1回を投げて自責点はわずか1点というルーキーとは思えぬ快投を見せて一軍の切符を勝ち取ると、開幕投手こそゆでたまご板東英二に譲ったものの、初登板の巨人戦ではいきなり9回1失点完投で初勝利を挙げ、中継ぎ登板を挟み二試合連続で完投勝利、ここから徐々に登板数が増えていき5月28日から6月4日にかけては6連投と早くもチームのエースピッチャーの座に収まる。ただ連投の代償か、6月初めに肩痛を発症してしまった他、好投しても打線とかみ合わなかったこともあり4月・5月では計4敗だったが6月半ばで3敗を記録してしまう。しかし季節が梅雨入りを迎えると雨で試合が中止になることもあり、これが権藤にとって貴重な休養期間となる。6月24日には大洋戦で11回1失点で完投勝利を挙げると、雨の影響で次の登板が7月1日まで延び、7月4日から7月15日までの期間は雨か移動日か権藤が先発するという事態になったため、この状態を表した言葉として「権藤・権藤・雨・権藤」という流行語が生まれた。(なおこの言葉は権藤が入団する前年の60年に新人王を獲得した堀本律夫が新聞記者との雑談中に「中日には権藤しか投手がおらんのか?権藤、雨、旅行日、権藤、雨、権藤や」と発言したことがきっかけと言われている。)結局権藤は7月末から8月半ばまでには6試合連続完投を記録するなど凄まじい勢いで投げまくるが、中日は勝利数では巨人を上回ったものの、勝率で巨人を下回ってしまったため権藤の力投もむなしく優勝することは出来なかった。権藤はこの年チーム試合数130の半分を超える69試合に登板し、429と1/3回を投げ、新人最多記録となる35勝を挙げ、防御率1.70と310奪三振はいずれもこの年一位、さらに新人王と沢村賞を同時受賞するなどタイトルを総なめにした。ちなみにシーズン400投球回はこの年の権藤と稲尾和久を最後に現れていない。翌62年は前年の疲労が抜けきらぬ中でも投げ続け、61試合に登板し362と1/3回を投げて30勝を挙げ、二年連続最多勝利を記録するが、この過酷な登板で権藤の肩は限界を迎えてしまい、63年は10勝、64年はわずか6勝に終わってしまう。65年からは打者に転向し67年には最多犠打を記録し、サヨナラホームランを放つなどの活躍を見せるが、結局レギュラーに定着することは叶わず、68年には再び投手に戻るものの、かつての球威は戻ることはなくこの年限りで引退した。
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連敗ストップ!でも皆さん四球が多いですよ・・・